32年前の1985年8月12日、日本航空123便の747型旅客機が群馬の山中に墜落。
4名が奇跡的に生存・救助されたものの、子供や妊婦も含む520名の命が山中に消えました。

このような日だからこそ筆者なりの「安全」に関する考え方を、ブログ本来のテーマとは外れますが、この場を借りて書かせて頂ければと思います。

安全とは「誰かが失った命・人生」

筆者が一番言いたいのは、この部分です。

我々は今、鉄道でも飛行機でも、とても安全な移動を楽しむことが出来ます。

しかし何もかもが最初から上手くいっていたわけではありません。

時にヒューマンエラー、時に機械トラブル、ある時は悪天候。
何度も何度も多くの人命が一瞬で奪われてきました。

これから何十年も生きられる、人生が始まったばかりの子供もいました。
生まれたばかりの子供の成長を楽しみにしているお父さん・お母さんもいました。
何十年も働き続けて、平穏な最期を迎えたい御年寄りもいました。

事故はそういった罪無き人々の命を、何千何万と残酷なまでに奪ってきたのです。

命こそ奪われなかったものの、一生を棒に振るような大怪我・障害を負った方も多くいらっしゃいます。何の罪も無いのに突然寝たきりの生活を余儀なくされた、人の助け無しでは暮らせなくなった、想像を絶する絶望感でしょう。

「一件の事故」じゃないのです。「何十人、何百人の命・人生を奪った」のです。

そして、そんな悲劇を二度と繰り返してなるものかという関係者の不断の努力により「安全」は、より確実なものへと進んできたのです。

つまり我々が今享受している「安全」は、誰かの生きられなかった人生、命そのものなのです。

故に筆者は安全を軽視するような人間は大嫌いです。
それは「人の命」「死者の魂」を足蹴にしてる、踏み躙る事と同じなのですから。
あえて厳しい言い方をしますが、そんな人間は本来、社会から軽蔑されるべきです。

安全とは何か

筆者の考える安全とは「許容出来ないリスクが無いこと」というISOの考えに基づくものです。

当然、許容出来ないリスクの最たるものは「人命」であり、人の命に危険を及ぼすような状況は間違いなく安全とは言えません。

しかしリスクとは確率論・統計論の世界でもあります。

1/10の確立で事故を起こす事と1/1000000の確立で事故を起こす事は、引き起こす結果が同じであっても同列に語ることは出来ません。

そして世の中に「絶対」はあり得ません。
どれだけ創意工夫を続けても、事故の確率がゼロになることなどありません。

故に我々は、どこかで妥協点を見出すしかないのです。

この価格で事故に遭う確立がこれだけ下がるなら、このお金を出そう。
自分はもっと安全なほうがいい、だからもっと高価でいいから安全なものを提供してほしい。

生々しい話でなんですが、現実的に考えて安全を求めれば求めるほどコストは跳ね上がります。
信頼度99%の機械を1台だけで運用すれば、当然信頼度は99%ですが、これを全く同じものを2個並列で繋げて、どちらか片方でも稼動すれば支障が無い構成にすれば99.99%、3個並列にすれば99.9999%の信頼率になります。
しかし導入コスト、運用コストも2倍3倍です。

99%を99.99%にする為に、2倍のお金を払いますか?

これは考え方次第としか言いようがありません。
「私はこのシステムは99%の確立で十分だと思う。元の価格で十分だ」という考えも何らおかしいものではありません。

しかし「金は払わない、だけど信頼率は99.99%にしろ」という人間は阿呆の極みです。

事故は起きる、だから安全を目指す

筆者は「絶対安全」という言葉が嫌いです。

安全に絶対なんてありません。

絶対が無いからこそ、歩みを止めないのです。

どれだけ工夫しても、ルールを守っても、ちょっとしたことで安全というのは容易に崩れます。

崩れやすいものだから、絶対なんて無いものだから

「もっといい方法は無いか?」
「これは本当に大丈夫か?」
「ここが心配だから見直そう」

という考えが生まれるんです。

それを「絶対安全」などという言葉で思考停止するのは、愚の極みです。

歩みを止めちゃいけないんです。

絶対が無い事を分かっているからこそ、絶対安全という理想に近付いていくのです。

あとがき 筆者の体験(愚痴・恨み節が混じっています)

筆者が、何でここまで安全に厳しい考えを持っているのかというと

学校を卒業して最初に入った会社が、まさに先ほどの阿呆の極み・愚の極みを地で行く会社だったからです。

口だけの「絶対安全」、保守や整備の予算はケチる、安全管理の具体策は講じない、上からの指示は「マニュアル守れ」「意識が低い」。名ばかりの「安全会議」を開いて、実績にする。

典型的な「水と安全はタダだと思ってる」日本の考え方だったのです。

会社名を出せば「えっ?そんな有名なところなのに?」と驚かれるようなところですが、内部告発が目的ではありませんので、会社名は伏せさせてください。

マニュアル・手順書を守れと言いますが、紙を読んで100%そのままに行動できるなら、誰も苦労しません。
内容をそのまま実行するには「訓練」「教育」が必要なのです。

例えば楽譜を渡されて「はい、これ初見でミス無く弾いてね」と言われて楽器を弾けるのかという話です。常識的に考えて無理でしょう。

なのに会社は、名ばかりのOJTで現場に放り出し、トラブルが起きると「なんでマニュアル通りに出来ないんだ!」「手順書守らないから事故になったんだろ!」が口癖でした。

「マニュアルを守れない奴は意識が低いから処罰する」とまで言ってました。
この方達は、過剰な日勤教育=懲罰的な処分が運転士の精神を圧迫して100人の命を奪った福知山線脱線事故から何を学んだのか。

人手不足も慢性的でした。それに対して、会社は新卒の新人を続々と投入する事で解決を図ろうとしました。

しかし、技術系の作業において、新人教育には「安全管理」が欠かせません。
経験したからこそ分かる危険箇所や危険行動、けど新人さんはそんなこと分かりません。全く意識せずに危険に突っ込もうとしてしまいます。
指導役は、その一挙手一投足を見張るのですから、一度に対応出来る人数も限られますし、何より自分の仕事を大幅に犠牲にしないと成立しません。

上司には「こっちは新人さんの命預かるんですよ!そんな軽く考えないでほしい!」と何度も直訴しましたが、返事はいつも精神論・根性論でした。

時には「お前は会社組織というものが分かってないんだ」「この石頭の杓子定規」「お前みたいなのがいるから物事が順調に進まない」などと罵られました。

こんなことが長く続いたこともあり、会社との関係は決定的なところまで冷え切ってしまい、私は会社を去りました。

ただ後悔していません。

最初に書いたとおり、安全とは人命を失った歴史の積み重ねです。

会社組織というものを理解する、杓子定規じゃない柔軟な思考を身に付ける、物事が順調に進むために妥協する、その結果、安全を軽く見る=人の命と死者の魂を足蹴にするような自分で軽蔑するくらいの人間に成り下がるくらいなら、臆病者と言われようと私は前の会社を去ったことを正しい選択肢だったと胸を張って言えます。

 

痛飛行機弐