現職幹部自衛官による議員への『国民の敵』発言の問題点整理
非常に残念な事件が起きました。
現職の統合幕僚監部勤務の3等空佐が、国会議員に対して『国民の敵』などという罵声を浴びせたという報道です。
この件、相手が相手だけに感情的な意見も多数見かけますが、これが如何に危険なことなのか。
解説していきます。
なお、最初に申し上げておきますと。
私は罵声を浴びせられた民進党・小西洋之という議員は『大嫌い』です。
正直申し上げて、さっさと辞職してくれと思うくらいには。
ただ、それでも今回の自衛官の行動に対しては極めて強く否定的な意見を取ります。
文民統制
言わずもがな、自衛隊の持つ『軍事力』は好き勝手に自衛官が使用することが出来ません。
軍隊・自衛隊の持つ軍事力の行使・武器の使用は厳密に規定され、文民の指揮下におかれなくてはならない。
『許可無しでは銃弾1発撃つことは許されない』
文民統制・シビリアンコントロールの考え方です。
日本国政府の文民統制については、佐藤栄作総理大臣の答弁より
また、シビリアンコントロールについてお尋ねがありましたが、申すまでもなく、自衛隊は政治優先のシビリアンコントロールの原則が貫かれております。そしてその背景には、戦前の苦い経験があることを忘れてはなりません。現在、自衛隊のシビリアンコントロールは、国会の統制、内閣の統制、防衛庁内部における文官統制、及び国防会議の統制による四つの面から構成されておりまして、制度として確立されているものでございまして、この点では不安はない、かように私は思います。
(第051回国会 衆議院本会議 国会議事録より)
この考え方が現在でも基本です。
武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律においても、自衛隊の出動を命ずる防衛出動の命令者は内閣総理大臣ですが、必ず国会の承認が必要であり、国会が否決した場合は速やかに撤収しなければなりません。
故に、国会を構成する『国会議員』は自衛隊にとっては、自らを指揮・監督する立場にあり、反抗することは許されないのです。
今回の件は、軍人・武官が、文民統制において絶対とされる国会>自衛隊という構図に逆らうものであり、決して許されるものではありません。
『国民の敵』という発言
文民統制において重要な考え方として
「国民は軍人を選ぶのではなく、選挙を通じて議員を選ぶ」
というのがあります。
つまり国民を代表して意見を述べるのはあくまでも選挙を通じて選ばれた「議員」なのです。
今回の件では『国民の敵』という発言があったと報道されていますが、自衛官は国民の代表ではありません。
故に「正義は我にあり」と軍人が暴走することは絶対にあってはならないのです。
あまり言いたくはありませんが、今回の騒動は『軍が政府・議会に反抗する』という点において、戦前の二・二六事件に通ずるものがあるほど危険なものです。
故に、自衛隊に対して肯定的な立場であればあるほど、厳しい意見を持つべきであると考えます。
文民統制というのは、思想まで統制するものなのでしょうか?
iPhonezaki様
自衛官も「自衛官である前に国民である」という観点から、思想の自由はあるでしょう。
戦前と違って、選挙権も与えられていますし。
(大日本帝国憲法下において、軍人は選挙権・被選挙権どちらも対象外でした)
問題は「それを表に出した」ことで、超えてはならない一線を超えたということです。
なるほど!
立場にある人間としてよく考えた発言をするべきですね……
くだらない質問に答えていただきありがとうございます。
いつも、陸海空自の情報を面白く取りあげられているので楽しく拝読しています。
いつも読んで頂きありがとうございます。
この記事を書いた後、色々とまた追加の報道がありましたが、やはり「身を弁えるべき」というのが筆者の思うところです。
私はこの件はシビリアンコントロールと関係がないと思っています。
ひとりの自衛官が自らの思想をぶつけて、それが侮辱的であっただけの問題では?
そもそもこの自衛官が何らかの職務規定や法律に違反し処罰されるなら、何ら文民による統制が揺るがされることはないでしょう。
日本国憲法66条2項の文民資格は、「内閣総理大臣および国務大臣が文民であること」を要請していますが、今回の事態はこれを否定したり抵触するものでは全くありません。
軍の暴走と個人の暴走は全く別物です。侮辱的であった点、方法が不適切であった点は当然否めませんが、その点にこそ非難が向けられるべきであると思います。シビリアンコントロールや、戦前の軍隊を思わせる、などの理由から非難を加えるのは筋違いであり、むしろ個人の思想抑圧にも感じられます。
田中様
コメントありがとうございます。
筆者としては「自衛官」と自ら名乗った時点で、一個人の思想の問題では済まないと考えています。
また個人の暴走と言いますが、氏が三佐=佐官という階級であったことを考えれば、教育・監督指導の観点から組織としての責任は当然問われるべきです。
筆者自身、公職にある人間であろうと、どのような思想を持とうと自由であると考えていますが、それを表に出すのは別問題です。