海上自衛隊初の迎賓艇「ゆうちどり」。その波乱万丈の生涯。
海上自衛隊には「迎賓艇」と呼ばれる、1隻しか存在しない船が存在します。
現在では特務艇「はしだて」がそれにあたり、国際行事や海外のVIP来日などの際に、船上パーティーなどを実施する為の言わば「海の迎賓館」とも言える船です。
この海上自衛隊の迎賓艇、初代は「特務艇・ゆうちどり」という船でしたが、その生涯は戦前・戦後の激動の日本の中で波乱万丈ともいえるものです。
今回は海上自衛隊初代迎賓艇「ゆうちどり」の不思議な生涯のエピソードです。
最初は名も無き1隻の船
「ゆうちどり」が竣工したのは日本が戦争の真っただ中にあった1943年3月。
名古屋造船(後にIHI愛知工場)で海軍雑役船(飛行機救難船)・公称1536号として生まれました。
名前の通り、海上に不時着した飛行機の乗員・機体を回収する目的の船です。
現代の海上自衛隊でも支援船は名前ではなく「曳船○○号」のように船の種別と番号だけで呼ばれますが、この船も当初は個別の船名を持っていませんでした。
海自初の迎賓艇は、名も無き一隻の船だったのです。
激動の戦後。朝鮮戦争へ
1945年の敗戦を以て、旧日本海軍は組織として解体。戦艦・巡洋艦などの戦闘艦艇は除籍・解体・処分が進みましたが、一方で小型の船については引き続き使用されることとなりました。
当時の日本周辺には戦争の負の遺物ともいえる機雷が大量に残っており、その処分を実施する掃海部隊の為に船が必要だったのです。
「ゆうちどり」も戦後の掃海作業の為に引き継がれたうちの1隻です。
なお「ゆうちどり」は船体が鋼鉄製であり、また全長50メートル・排水量300トンと実際の掃海作業にあたるには不向きな船だった反面、その余裕のある船体を活かして司令船・母船としての任務にあたることが多かったようです。
1950年「ゆうちどり」は非常に厳しい海へと向かうことになります。
朝鮮戦争で北朝鮮が敷設した機雷を除去する為、米軍の命によって組織された「日本特別掃海隊」、その総司令官指揮の母船(0番隊)となったのが掃海船MS-62こと「ゆうちどり」だったのです(当時は海上保安庁の船として広島県・呉港に所属)
日本特別掃海隊としての任務において「ゆうちどり」自らは被害を免れているものの、第2掃海隊(2番隊)のMS-14が機雷により大破、死者1名を出す事態も発生。
彼らは紛れもなく「実戦」の海へと向かっていたのです。
東京五輪開催・迎賓艇へ
危険な海から帰ってきた「ゆうちどり」はその後、海上自衛隊へと移管。
引き続き掃海部隊としての任務に従事していましたが、1961年に大きな転機が訪れます。
1964年に開催が決まった東京オリンピック、その際にヨット競技の支援及び各国から訪れる要人のもてなしの為、迎賓艇を用意することが決まり「ゆうちどり」を改修することとなったのです。
この船が選ばれた理由としては、元々飛行機救難船として設計されており、クレーンで収容した機体を置いておくための広いデッキをそのままオープンデッキとして使用できることなどがあったようです。
旧海軍・最後の1隻
東京オリンピックでの大役を果たした「ゆうちどり」。
その後も迎賓艇として様々な任務をこなしましたが、東京五輪の時点で竣工から20年、船としては十分にベテランの域です。
そして1978年3月20日、後継の「はやぶさ」に迎賓艇としての任務を受け継ぎ、激動の海を生きた「ゆうちどり」はその長い生涯に幕を閉じました。
旧海軍から引き継がれた艦艇は「掃海艇・ちよづる型」「掃海艇・うきしま型」などがありましたがいずれもこの時点では既に全て退役。
「ゆうちどり」の退役を以て、海上自衛隊に存在した旧海軍艦艇は全てその姿を消しました。
戦後日本の復興の象徴でもあった東京五輪、そこで活躍した迎賓艇が元は旧海軍の船で、さらに戦後は激動の朝鮮戦争へと向かっていた。
つくづく船の一生というのは不思議な巡り合わせなのだなと思うのです。
※参考文献
- 海上自衛隊全艦艇史(海人社)
- 朝鮮動乱特別掃海史(海上自衛隊)
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