【独り言】バニラ・エアの車椅子問題に筆者が思うこと

【独り言】バニラ・エアの車椅子問題に筆者が思うこと

(画像は旅客機の写真を選んだだけで、本文の記事内容とは無関係です)

このブログの趣旨とは離れますが、自分の頭の考えを整理する意味も込めて、また1人の飛行機好きとして、この場を借りて書かせて頂ければと思います。

格安航空会社のバニラ・エアが、車いす男性の搭乗に際して、問題があったことはご存知の通りかと思います。

世間の反応は様々ですが、筆者なりの考え方を整理させていきます。

要点は4つです

・バニラエア、奄美空港にも非はある。当然責められるべき。
・しかし飛行機という特殊な事情は避けては通れない。
・抗議するなら手段を選ぶべき。日本は法治国家なのだから。
・社会は何もかも有限であることを忘れてはいけない。

バニラ・エア、奄美空港には当然、非がある

まず、筆者の考えを述べる上で、大前提はこのポイントです。

バニラ・エアはLCC、格安航空会社とはいえ、公共交通機関に位置付けられる以上、バリアフリーに関する義務は果たさなければならず、障害を理由に搭乗を断る場合があったのであれば、それは間違いなくNGです。

奄美空港も同様、離島空港とはいえ「空港」です。当然、対応する義務があります。

実際、今回の件を受けて、バニラエアでは階段昇降機(ストレッチャー)を使える体制を作ったと言うことなので、今までその体制を作ってなかったのは、単純に面倒事を後回しにしていたというところがあるでしょう。

ここは、きっちり非難されるべきであり、航空業界に限らず、全国的に公共交通機関で改善されるべき事項です。

(7/2追記)

コメントで奄美空港について言及した事を触れていただいたので、少しだけ加筆します。
旅客に関することは原則的に航空会社の責任として対応する部分が大きいと思います。
しかし「何処に責任があるのか」という縦割り思考は、対応を鈍らせることに繋がります。
過去には「保安に関する事項は航空会社と警備会社側の担当」と対応を後回しにした結果、全日空機が保安体制の隙を突かれてハイジャックされパイロットが殺されるという痛ましい事件も起きております。
航空会社と空港、両者が当事者意識を持って、より良い方向に進んでいくことを望むために「空港にも責任にはある」という厳しい意見に至りました。

飛行機という特殊な事情・事前の連絡は安全のため必要

LCCに限らず、日本の航空会社のほとんどは、車椅子での搭乗に際して、事前に申し出て欲しい旨を案内しています。

これは対応設備云々は勿論ですが、何よりフライトの安全という観点が大きいと思います。

飛行機は車なんか比較にならないくらいの膨大なジェット燃料の塊です。
非常時には1分1秒を争う早さで、全乗客が脱出しなければ、引火した燃料の大爆発に飲み込まれて機体もろとも灰となります。

旅客機からの脱出は、どれだけの時間が想定されているかご存知でしょうか。

僅か90秒です

90秒で全員がEvacuate、脱出しなければいけないのです。

当然、障がいを抱えている人でも、例外とはならないでしょう。
そのために、脱出の計画(誰が、どの障がい者を、何処のドアから脱出させる)が必ず用意されています。

キャビンアテンダント、筆者は元航空会社勤務で今は当時の経験を基にマンガ家として活動されてる御前モカ先生を応援しているので、あえて「(CABIN) CREW」と呼びますが、この方々の本分は保安要員、非常時に旅客の生命を守るための要員です。

CREWの方々は、非常時に備えて、厳しい訓練をされています。しかしどれだけCREWの皆さんが頑張っても、旅客が非協力的であれば、速やかな脱出は出来ないかもしれません。これは健常者・障害者に関わらずです。

実際、2016年に発生した千歳での日本航空・エンジン発火に際しての脱出では

  • 荷物を持っての脱出(シューター破損の危険)
  • 脱出後に機体から離れない(爆発に巻き込まれる危険)

などが指摘されました。

それくらい日本においては、旅客も緊急時の脱出ではルールを守って全体の安全に協力的でなければならないという意識が定着していないのです。

筆者は、飛行機に乗る以上は「旅客」として安全なフライトに協力すると言うのは、これは乗客としての義務だと思います。当然、脱出に際しては、安全な脱出が行われるよう、協力すべきであると。

この「安全な脱出」への協力に、障がいを持つ人が事前に自らの情報を申告しておくというのがあるのは、変なことでしょうか?

飛行機に限らず、公共交通は安全が第一の使命であると考えますが、中でも飛行機は特殊な事情が多く、安全なフライトには旅客の協力が欠かせないものです。
健常者も障がい者も平等に扱うべきだと言うなら「フライトの安全」に対する姿勢も同様であるべきだと思うのです。

極端な話ですが

・事前の連絡が無かったため、障がい者の座席位置調整が出来なかった
・不時着して脱出する事態に
・狭い通路で障がい者が動けなくなってしまい、他の乗客も行動不能に
・脱出が間に合わず、本来助かるはずの人間が爆炎に呑まれる

こんな事態になった時、事前の連絡を行わなかった障がい者は「自分は誰の助けもいらないと言ったんだ」で責任が取れるのでしょうか?
同行者が脱出をサポートする?燃え盛る炎、負傷者の呻き声、自らも無事とは限らない、その状況で一般人がパニックにならない保障が何処にあると?

飛行機に限らず、交通機関の安全に「だろう」は御法度であり、「かもしれない」が鉄則です。
×「脚が不自由な方も、本人が言ってるのだから大丈夫だろう」
○「脚が不自由な方は、脱出に手間取るかもしれない」
→そのリスクを排除する対策を求められる。

それでなくても、時間的余裕があれば、それだけ入念な準備が出来ます。
「焦り」「慌て」「余裕の無さ」は事故を生む大きな要因です。
それが事前の連絡で排除出来るのであれば、飛行機の利用者として歓迎することではないでしょうか。

またスペースに制約のある飛行機においては、全てを望むことは出来ません。
CREWの人数、座席配置など、1便あたりで受け入れられる障がい者の数に物理的限界が生じるのは、これはどうしようもないことだと思います。

抗議の手段は選ぶべき、日本は法治国家

今回のトラブルを起こした方は、度々事前の連絡無しに空港へ行き、飛行機に乗るということを、一種の抗議活動のように繰り返していたようです。

HPを拝見する限り、どうにも「事前の連絡が必要である」ということは把握されていたようなので。では、何故然るべきところに抗議の声を挙げずに「現場」にこだわっていたのか。そこが疑問です。

バリアフリーに関する法律は、確かに障がいを持っている人でも利用出来る環境整備を公共交通事業者に求めています。
しかし同時に航空法は、旅客機の機長・キャプテンに安全なフライトを行うための重大な責任と、それに見合う権限を与えています。
この乗客は安全な運航を妨げると判断すれば搭乗を拒否する、フライト中に迷惑行為を行った者を拘束する、それくらい強大な権限です。
当然、障がい者の搭乗に関しても、先の脱出ルールなどを踏まえて、最終的な判断を下すことが出来るのは機長のみになります。

航空運航約款においても、安全な運航を妨げる場合、航空会社は搭乗を拒否できると書いてあるので、これは航空会社と利用者の言わば「約束事」です。

障がい者の権利と、機長の安全に関する権限、そのどちらが航空機の運航において優先されるべきか、私が知る限り判例が出たケースは無いかと思います。

(H29.6.30追記)
検索したら1つだけ、裁判例がありました。
身体障害者の航空機単独搭乗の拒否と航空会社の債務不履行責任(外部リンク)

高裁判決ですが、身体障害の程度によって搭乗を断る航空運送約款について、身体障がい者の自由を考慮したうえでも無効であるとは言えず、それに基づく搭乗拒否も、合理性を欠くものではない、としています。

 

恐らくは、その妥協案として「事前に連絡」→「必要な準備を整える」ことで、機長は安全なフライトを行えると判断しているのが、現状ではないでしょうか。

つまり現状「事前に連絡を要する」ことが、バリアフリーの観点から違法なのか、航空機の安全を優先するために合法なのかは、はっきりとした指針が無いのです。
障がい者差別解消法も、負担が重過ぎない範囲で合理的配慮を求めるとするのが大原則です。
障がい者の言い分を全面的に受け入れるべきとは誰も言ってません。

そもそも日本国憲法は「個人の自由・人権」を保障すると同時に、それは公共の福祉に反しない範囲でなくてはならない、と定められています。
個人の人権を主張するために、他の人間に迷惑を掛ける自由など認められていません。

これを「バリアフリー法、障がい者差別禁止法があるんだから断るのは違法!」と強行するのは、私人が法律をジャッジして、他者に押し付けている状態です。これは法治国家にあるまじき行為ではないでしょうか。
先の障がい者差別禁止に関する法律も「合理的な理由が無い限り、差別的な扱いはしてはいけない」とあるだけで、飛行機の安全運航が合理的な理由じゃなければ、一体何が合理的な理由だというのか。

ましてや、カウンターの受付スタッフや地上職員という、権限の弱い人間に法律が云々という話を迫るのは、言語道断です。法律論議がやりたいのであれば、企業の法務課などと議論するべきでしょう。

また自分の思想を優先するために、周りの人間に影響を与えていいなんていう理屈はありません。

障がい者に人権があるように、健常者にも人権はあるのです。
自分の人権を守るために、他人の人権を侵害する権利など、何処にありましょうか。

抗議するのは自由。思想も自由。
しかし、正当な方法でのみ発言は認められる。

これが筆者の考えです。

自分で勝手に法律をジャッジする、または自らの考えを押し通すために、法治国家の仕組みすら否定するような人間の発言を、社会は認めるべきではないのです。
それは正当な方法で抗議している人間を侮辱する事に他なりません。

最後に

正直なところ、障がい者の暮らしやすい社会を目指す、これは社会の理想として、当然向かっていく形だと思います。

しかし、現実を見れば、人・金・時間、全て有限です。
「ぼくのかんがえたりそうのしゃかい」
を作るには、何もかもが足りません。

と、なれば、何処かで妥協点を見出していかなければならないでしょう。

ある方は、障がいを「個性」だと仰いました。1人1人違うだけなのだと。
ならば皆が、なるべく多く幸せを享受できる妥協点を実現するために、1人1人が出来ることも当然違うのではないでしょうか。

障がい者差別解消法のリーフレットにも障がいのある人と無い人が、お互いに理解しあっていくことが「共生社会」の実現にとって大きな意味を持つとあります。
健常者側が全面的に妥協するのではなく、お互いがお互いに譲り合うことが大切であると。

筆者は障がい者の安全を確保するための費用負担を、障がい者本人が持つべきでは無いと思います。それは社会全体で支えあうところでしょう。しかし皆が皆、裕福な訳では無いのですから、節約は必要です。
本当なら1人あたり1万円の負担が必要だけど、障がい者が何らかの協力をしてくれれば半分に出来るというなら、そこを落としどころ、妥協点にするというのは双方の歩み寄りとして十分に検討されるべき事項でしょう。
それを「お前ら、黙って1万円払え!」なんていう障がい者は社会から冷たい視線を浴びて当然です。
もちろん「俺は何の負担も無いのだから、1円も払わない!障がい者が全部払えば済む話だ!」という健常者も、また論外です。

つまり障がいを持つ人も、積極的に社会の一員として参加するべきであり、障がいを理由にあぐらを書く人間は「共生社会」の一員とは言えないと思います。

実は、筆者も1つ、普通の人とは違う「個性」を持っています。
見た目では分からないですが、これのせいで人生で相当嫌な思いもしてきました。

しかし、大人になった今、社会の中で自分の個性を活かせる場所を探して「妥協点」にしているつもりです。
何故なら、どれだけ頑張っても、いわゆる「健常者」と、私の身体の一部は違うのです。

皆が暮らしやすい社会とは、それぞれが妥協できるところを譲り合う社会ではないでしょうか。全てが有限の社会において、「完璧」など存在しないのですから。

(7月1日追記)

理想的な社会を作ることの難しさ

この記事を予想以上に多くの方に読んでいただき、中には「分かりやすい」という声まで頂いた方もいらっしゃいます。
こんな素人の考えを読んで下さる方がいるというだけでも有難いです。

さて、報道から数日経って、いろんな意見が出回っていたり、件の本人が自身について語っていたりと、それを踏まえて更に筆を加えたいと思います。

本件において、車椅子の当事者を擁護する声の多くは「理想のバリアフリー社会」という考えを強く持っておられるように思います。
先に書いたとおり、私も「障がい者が不自由無く暮らせる理想の社会」は、国が目指していく理想の方向性だというのは同じ考えです。
しかし、それを実現していく上での「資本」は、有限であるということも、また先に述べた通り。

では、強引に理想の社会を「形」として与えてみると、どうなるか?

20世紀初頭、旧ソビエトを筆頭として、多くの国が「社会主義」を導入したのは、ご存知のことかと思います。
社会主義は「国民皆平等」という、非常に理想的な社会のはずでしたが、冷戦終結、ソビエト崩壊と続き、社会主義は、ほぼ失敗に終わっています。理想的な社会を「形」として与えたのに、何故失敗したのでしょう?

簡単に言えば、それを実現できるだけ国民意識が成熟していなかったのです。
皆が平等であるということは、個人が欲を放棄するということ。
しかし人間は本質的に欲張りです。煩悩を捨て去った御釈迦様や聖人のような人間は、そうそういません。
その人間の本質を無視して、理想の形だけを与えても、結局は成立しなかったのです。
つまり、強引に形だけをこしらえても、それを成しえる国民意識が無ければ、形骸化していくというのは歴史が証明しています。

ちなみにソ連では、身体障碍者は自由が許されるどころか、特定の施設に集められ、集中管理されていたと聞きます。健常者とは明確に「区別」されていたのです。

なお、このような「形」を作り出すための社会とは、民主主義とは相容れないもので、基本的に特定の政治組織が強権的・独裁的な政治を行うことが前提となりますが、理想的な社会を主張する皆様は、どうにも現在の日本の政治を「独裁」だの「ファシズム」だの、民主主義を守れだと主張している皆様と、どうも被っている部分が多いような気がしてなりません。
民主主義を守れと言いつつ、民主主義から最も程遠い社会体制を望むとは、中々に面白い思想だと思います。
個人が成熟すれば政府の管理はいらないという考え方も確かにありますが。

また、人権意識の高まりというのは、社会の豊かさが成長した歴史と切っても切り離せません。即ち、社会的弱者にも優しい社会の発展というのは、社会が豊かであることと表裏一体でもあるのです。

「経済的負担」という要素を考えず、強引に形をこしらえて、結果的に経済が衰退した場合、恐らくは皆が皆、自分のことに精一杯になり社会への不平不満が募るでしょう。

大衆・民衆の不平不満が溜まったとき、社会的弱者・少数派・マイノリティーに、その怒りの矛先が向くというのは、これもまた歴史が物語っています。
「障がい者が優遇されている!」「あいつらが金を使ってるせいで、大勢の国民が貧乏なんだ!」、不平不満というのはこういった大衆を煽る劇場型政治の格好の材料になるのです。まぁ、あえて何処の国の何処の政党のこととは言いませんが。

即ち、強引にでも事を推し進めるべきということは、失敗時にとんでもないリスクを背負うことになるのです。それは障がい者が本当に望むリスクでしょうか?

今回のバニラの騒動でも、「障がい者は現状に甘んじず、積極的に声を挙げるべき」と主張している方もいます。
しかし、同時に「あのような、事を荒立てる方法は好まない」と主張している障がい者の方もSNSなどでお見かけしました。
「障がい者は積極的に動くべき」という自分の考える「障がい者の、あるべき姿」を勝手に決め付けて「私は穏やかに暮らしたい」という意見を無視するのは、それこそ多様な価値観を認めない「偏見・差別」ではないのでしょうか。

 

最後になりましたが筆者は社会の成長とは、森を育むことと似ていると思います。

厳しい環境にも耐え抜く森は、それだけ成長に時間が掛かります。
木々が頑丈な根を張るだけではありません。
落ち葉を微生物が分解して豊かな土壌を育み、虫が、鳥が、更には獣が、豊かな生態系を育んでこそ、環境の変化にも負けない、強い自己再生能力と自浄作用を備えた、豊かな森が出来上がるのです。

これを段階をすっ飛ばして、木を強引に植えよう、外来種を入れてみよう。
確かに短期の視点から見れば、見た目は立派になるかもしれません。

しかし、バランスを強引に崩した森は、やはり何処かに「歪み」が出ます。
そのような森は、外部環境の変化で、容易に崩れ去ってしまうのではないでしょうか。
今まで育んできた森を一時の欲で滅ぼすことなど、誰が望みましょうか。

社会も同様、長い時間を掛けて、個々の豊かな意識が育まれてこその、「成熟した社会」であると筆者は考えます。
ここに強引に法律や規則という「植林」で「理想の形」を作ったとしても、それは偽りの姿だと思います。
世界情勢は日々複雑に変化しています。経済・安全保障、明日も同じ姿が来るかなど誰にも分かりません。

「世界情勢」という環境変化が襲ってきたとき、偽りの「理想型」は果たして耐えることが出来るのでしょうか?

環境変化に襲われても強い生命力で姿を保てる、あるいは一時傷ついても自らの力で再生していく、そして今後も成長を続けて行く。
そのような本当の意味で強い社会を、長い時間掛けて育むことこそが、本来目指すべき姿だと思います。そして、それを成し遂げるには、一歩一歩譲り合って着実に歩を進めるしかないのです。

長々とお付き合い頂き、ありがとうございました。